遠山翠ショートストーリー
「おっはよう、旦那」
「おっす」
教室に入るなり掛けられた挨拶。俺を旦那と呼んだ女の子、彼女の名は遠山翠。
菜月の親友であり、麻衣の先輩であり、俺のクラスメート。
菜月と組んでクラスのムードメーカー的な存在である。
菜月とのつながりがあってか、クラスでは菜月についで仲の良い女の娘。
俺と菜月が一緒に教室に入ってくるとたいていそんな挨拶をされるのである。
「熱いねぇ、二人とも」
ことあるごとに、遠山は俺と菜月をこう冷やかした。
俺と菜月が付き合っているように見られているのはもう慣れたことだった。
現に今更、遠山に『旦那』と呼ばれても何の抵抗もなくなっている。
ただ俺と菜月はそんなつもりはなく、ただの幼馴染みでバイトの同僚としか考えていなかった。
そんな俺たちに変化がおきたのは7月。
菜月が大学受験に合格し、ミラノで修行中の母親に合格を報告に発った翌日に起こった。
第一回
「あれ？朝霧君？」
左門の買出しに出ていた俺は商店街で偶然、遠山出会った。
魚屋から出てきた俺は唐突に掛けられた声に振り向く。
「ん？遠山か」
私服姿の遠山が驚いたような表情で立っていた。
普段、制服姿しか見たことない遠山の姿はどことなく新鮮な感じがした。
「バイト？」
「あぁ、買出し」
他愛無い会話を交わす俺たち。
「ねぇねぇ。朝霧君のバイト先って菜月んちなんだよね？」
「そうだけど、でも菜月は今日はいないぞ」
「そうなの？」
「ああ、旅行中で土曜日まで帰ってこないな」
「ふ〜ん、そっかぁ」
考える人みたいに、あごに手を当てるポーズをとる遠山。
普段の言動を知っているだけに、まったく考えているふうに見えないのは内緒だ。
しばらく考える素振りをしたあと、遠山はぽむと手を叩く。
ここで遠山が思いも寄らないことを言い出した。
「じゃぁさ、これからそのバイト先行っていい？」
「別に構わないけど…結構高いぞ？」
左門は学生が気軽に入れるほど安いメニューは提供していない。
「あはは、困ったら朝霧君に助けてもらうから良いよ」
「頼むから困ることのないようにしてくれ」
遠山の申し出を断りきれず、俺は遠山を連れて左門に戻った。
ディナータイムが始まるまで、まだ30分ほど時間がある。
俺は裏口から店内に入って遠山を待った。しかし、彼女はなかなか現れない。
「達哉君、店の前にいる女の子、君の知り合いかい？」
仁さんが、少しいやらしい笑みを浮かべて俺に聞いてきた。
「多分そうですけど…なんですか、その笑いは？」
「いやいや、なんでもないよ。開店準備はほとんど出来てるから、少し時間潰してきていいよ」
そう言って仁さんは無理やり俺の背中を押し出す。
何を企んでるんだか。
俺は飄々とする仁さんの後ろ姿を睨みながら、店の外へ向かった。
「どうしたんだ？入ってくれば良いのに」
店の前でおろおろしていた遠山に声を掛ける。
「だって、準備中みたいだし」
そうだった。まだ店のプレートは『CLOSED』になったままである。
「そっか、すまなかったな。開店まであと30分くらいあるんだ」
「んー、出直した方が良いかな」
困った顔で人差し指を頬に当てる遠山。不覚にも少し可愛いと思ってしまった。
「いや、せっかくだから中に入って待っててくれよ。開店準備はほとんど終わってるから」
「そう？じゃぁお邪魔するね」
嬉しそうに笑う遠山の笑顔が妙に印象的だった。
「こちらへどうぞ」
遠山を窓際の客席に案内する。店内で指折りの特等席だ。
「う、うん。ありがと」
そう言いながら着席する遠山はどこか落ち着かない様子だ。
「どうかしたか？」
普段ではあり得ない様子に思わず声を掛けてしまう。
「いや、なんかさ。外から丸見えじゃない、この席。落ち着かなくって」
そう言って苦笑いする遠山。
窓際の席は見晴らしが良い。ただ、遠山の言う通り外から丸見えである。
「そうか？ここに来る客は好き好んでこの席に座るけど」
この店の客は、中流階級以上の割と生活に余裕のある人間が大半を占める。
おばさん連中なんかはこの店で食事をすることを周りに誇示したいのか、この席が空くまで待つグループもあるくらいだ。
それに店のメニューの値段もメインディッシュは基本的に4桁から。
そんな店に、普通の学生が食事に来ているのだから気持ちはわからなくはない。
そんな他愛無い話をしていると
「タツ、お客さんかい？」
厨房から現れたおやっさん。
「あ、こんにちは。お久しぶりです」
俺が返事をするより早く、後ろで遠山が立ち上がり、頭を下げる。
「おぉ。遠山さんだったかな。いらっしゃい」
おやっさんも愛想よく返事を返す。普段、俺たちにはなかなか見せない笑顔だ。
どうやら顔見知りらしい。まぁ、菜月と親友やってるくらいだから当然といえば当然か。
「タツ、何か飲み物でも出してやりなさい」
「いいんですか？」
「当たり前だ。せっかく来てくれてるんだからな」
そう言われ、厨房に引っ込むと客用のグラスにオレンジジュースを注いで持ってきた。
「えへへ、ありがと」
遠山は嬉しそうだ。
真正面から感謝の意を表されると、正直恥ずかしい。
俺はごまかすようにおやっさんに向き直り、呼ばれた理由を聞きなおす。
「で、何か用事があったんじゃないんすか？」
「あぁ、表の黒板に今日のお勧めを書いてもらおうと思ったんだが、仁にやらせるよ。おい、仁」
「はいはい。了解ですよ、親父殿」
おやっさんからお勧めのメニューが掛かれた紙とチョークを受け取る仁さん。
俺をちらりと見ると『まいったね、こりゃ』とでも言いたげな顔をする。
「達哉君、2つ目の貸しだよ」
「なんでそーなるんですか」
1つ目の貸しを作った覚えもない。
菜月がいない今、仁さんを止める人間はいなかった。
おやっさんは厨房に戻り。仁さんは表に出て行った。
遠山にジュースを用意すると、俺も彼女も手持ち無沙汰になる。
菜月や麻衣、学校のことなど共通の話題は多いはずなのに、何を話したらいいのか分からなかった。
そんな時間が少し続いて
「タツ、そろそろ店を開けてくれ」
やっとおやっさんの声が飛んできた。
これぞ、とばかりに飛びつく俺。
「じゃぁ、仕事に戻るから。ごゆっくり」
「うん、ありがと」
夕方5時。トラットリア左門のディナータイム、スタートである。