1年B組vs黒い悪魔
「きゃ！」
退屈な英語の授業も残すところ10分を切った頃に事件は起こった。
すぐ後ろの席の柚香が悲鳴を上げた。
私は驚いて後ろを見る。
「どうしたの、ゆかりん？」
柚香がある一点を指差して、あさっての方向を向いている。
「ま、まつりん。あ・・・あれ」
その指差した方を見たくないようだ。
で、その先にあったのは。
黒い塊だった。しかも結構デカイ。
他のクラスメイトもその存在に気付いたのか、うわぁとかこっち来るなとか言っていた。
私もコイツはかなり苦手。自宅のキッチンはお母さんの手入れが行き届いてるから
ほとんど見かける事はないんだけど、忘れた頃に現れるのが憎たらしい。
一方、比較的雑な整理をしているカフェテリアでは良く見かけたりする。
何回見ても慣れるものじゃないんだけど。
教室のど真ん中を悠然と歩く黒い悪魔。
男子生徒の何人かが、「お前が何とかしろよ」と言っている。
もちろん彼らはじゃれているだけで、誰も行動を起こそうとしない。
これだから男子は…。
そんなことも意に介せず、授業を進めるマイペースな英語教師。
それもどうかと思う。
ざわざわする教室。結局誰も手を出せずじまいだった。
さすがに、ざわついた教室に耐えられなかったのだろう、英語教師が微妙にキレた。
「少しうるさいですよ。静かに」
しかし、クラスメイトたちはどこ吹く風。授業終了も間近とあり、今の興味は黒い悪魔に注がれていた。
静まらない生徒にイライラしたのか、教師は突然なにかを言い出した。
「仕方ないですね。今日は16日ですから、出席番号16番の渋垣さん」
私もヤツの行方が気になっていたので、呼ばれたことに気付かなかった。
だってそれどころじゃないもん。
「渋垣さん！」
「は、はいぃ！」
突然大きな声で呼ばれた私は、裏返った声で返事をして立ち上がった。
「では質問です。その黒いのを英語では、何と言いますか？」
「はい？」
質問の意図がつかめない。真面目とは言えない態度で授業は受けていたけど、そんな内容をやってはいなかったはずだ。
私は頭に？？？を浮かべていると
「ですから、その黒いものを英語で」
イライラしているのが見て取れる表情の先生。とにかく答えなきゃ。
でも、ここは日本よ？そんなの知ってる訳ないじゃない。
「…GOKIBULI？」
ちょっと英語っぽく言ってみた。だっていつでもカタカナ表記だし、これって元々英語だからでは？
「そんな訳ないでしょう」
先生は、はぁと溜息をついた。
「では、答えられる方はいませんか？」
他の生徒に話を振る。
しかし、誰も答えようとはしなかった。
「誰も分からないのですか、まったく」
いや、もし知ってても答えるのは躊躇うと思う。
「まぁ私もアレは嫌いですから、興味のある場合は各自調べてください」
「うわぁ…テキトー」
だれかが小さくつぶやいた。
「なにか？」
キッと、その生徒を睨みつける先生。
「いえ、何でもありません」
少なくとも、そんな興味のために辞書を引くほどこのクラスの生徒は真面目ではない。
機嫌悪そうに授業を再開する先生。しかし、生徒たちはもう授業そっちのけです。
また少しずつ騒がしくなる教室。
「Be quiet!」
先生が大きな声でそう言った直後、授業終了のチャイムが鳴った。
怒りの矛先を失った先生は肩を落として
「今日の授業はここまで」
週番の号令がかかり、授業は終わった。
しかし、例の黒いヤツは未だに教室内をうろうろしている。
そういえば柚香は…ってすでにいないし。
私は一連の騒ぎなど気にしないで次の授業の準備をしているちひろの側に向かった。
「ねぇねぇ、ちひろ」
ちひろに声をかける。授業の準備の手を止めて、こちらを向くちひろ。
「茉理、どうしたの？」
「さっきの騒ぎ、気にならなかった？」
「うん、別に」
特に興味もなさそうな顔のちひろ。
「温室でたまに見かけるから」
「あー、そういうことね」
「ある程度、温度を保ってるから冬でも見かけるんだよ」
ちょっと楽しそうに話すちひろ。その感覚はどうかと思う。
その辺の昆虫と同じにしちゃダメだよ、とは言えなかった。
「茉理、そっちに行ったよ！」
そのとき、クラスの女の娘から声が掛かった。
「うわぁ！」
ものすごいスピードで地を這ってくる黒いヤツ。
「まつりん、ファイト！」
突然、柚香が現れて何かを手に握らせた。そして脱兎のごとく、また教室から出て行く。
手に持っていたのは…ハエたたき。どこから用意してきたのよ、これ。
私は廊下に逃げた柚香を見た。彼女は小さくガッツポーズをしている。
私に退治せよと、そういうことさせますか…。
「渋垣さん、頑張れ〜」
教室のそこら中から応援の声があがる。申し訳ないが全然嬉しくない。
「はぁ、やればいいんでしょ」
私は溜息をつくと、相変わらず悠然と教室を闊歩するやつの前に立ちはだかった。
ヤツ止まる。
私構える。
時が満ちた。
いざ。
私はハエたたきを大きく振りかぶると、狙いをつけて叩きつけた。
カフェテリアで鍛えた腕力は伊達ではない。食料って結構重いのよ！
エモノが軽い分、野球部顔負けのヘッドスピードでハエたたきを振るった。
ぴし！
小気味良い音が教室に響いた。
「やったの？」
だれかが呟いた。
しかし、黒いヤツは私の叩いた場所から10cmほど離れた場所にいた。
余裕綽々で顔をポリポリかいている。
「まつりん、ヘタっぴ〜」
教室の外の柚香から野次が飛ぶ。なんともいえない空気が教室に充満した。
「き〜！ムカつく〜！」
私は我を忘れ、闇雲にハエたたきを振るう。もちろん、そんな適当な剣戟が当たるはずもなく…。
ヤツはひょいひょいと嘲笑うかのように身をかわすと、柚香の後ろにあった掃除用具庫に潜り込んでしまった。
「「「あ」」」
クラス全員が同時に同じ声を発した。
教室が水を打ったように静かになる。用具庫から聞こえるガサゴソした音が余計に不気味に聞こえた。
「いや〜〜〜〜〜！」
悲鳴を上げたのは廊下にいた柚香である。
次の授業までまだ時間があるが、ヤツが出てこなかった場合、次の授業中も彼の恐怖に怯えなくてはならない。
「さ、次の授業の準備しよっと」
私はなかったことにした。
おっと、ハエたたきは柚香に返さなくちゃね。
私は柚香の机にハエたたきを置いて、自席に戻り、いそいそと教科書とノートを取り出す。
「ちょっと、まつりん！ずるいよ〜〜」
情けない声が遠くから聞こえる。聞こえない聞こえない。
「もう、仕方ないなぁ」
ここで予想もしなかった人物が参戦する。ちひろだ。
彼女は自分のバッグから何か、スプレー缶のようなものを取り出した。
あ、あれは…。
「これ、高いんだよ」
ちょっとだけ不満そうな顔をして、用具庫に向かうちひろ。
固唾を飲んで見守る一同。
ちひろはしゃがみこむと、ヤツが入り込んだ隙間からスプレーを吹き付けた。
ぷしゅーーー。
たっぷり3秒間。
白い霧が用具庫から漏れてくる。独特の匂いが鼻をついた。
「1分もすれば終わるから」
そういい残して、ちひろはスプレー缶を自分のバッグにしまった。
用具庫の中から、先ほどよりやや大きめの音がする。ヤツがもがいているのだろう。
程なくして、ヤツが出てきた。引っくり返ってじたばたと足を動かしている。
そのまま動きが緩慢になっていった。
そして、止まる…。
うぉぉぉ
教室内から歓声が上がった。
柚香は大喜びでちひろに飛びついている。
「も、もう、柚香ったら。恥ずかしいよ」
「ちひろ、サイコーだよ」
ちひろは顔を真っ赤にして照れていた。
ちひろって意外とシュールなのね…。
私は動かなくなった黒い塊をハエたたきに乗せると、それをごみ箱へ放り込んだ。
あとがき
ちひろちゃん大活躍。ということで1年Ｂ組の出来事でした。
まだ続きます（笑）